レズ・ミルズ・シニア(1934年〜2026年)− スポーツ、ビジネス、政治、そして人生において新たな道を切り拓いた現代フィットネスの父。
スポーツやフィットネスはもちろん、政治から社会活動にいたるまで、レズ・ミルズが遺した多大な功績に疑いの余地はありません。レズ、あなたの揺るぎない情熱、先見の明、そしてより健康的な世界を創造するために捧げた人生に心から感謝します。
レズリー・ロイ・ミルズ MBE, CNZM(1934年11月1日〜2026年6月29日)






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多才なスポーツマンであり、成功を収めた実業家であり、人々を鼓舞するリーダーであり、元オークランド市長でもあったレズリー・ロイ・ミルズは、正真正銘のレジェンドです。レズは、世界中の人々がフィットネスを愛するキッカケを与えてくれました。そのレガシーは、これからもあらゆるワークアウトのなかで生き続けます。
レズ・ミルズ・シニアの強さと決意が初めて垣間見えたのは、彼がわずか11歳の時でした。そのグレーリン出身のきゃしゃな少年は、父親を亡くした悲しみが癒えぬまま、初めての陸上大会に出場します。ある日、地元を拠点にするクラブのスカウトが彼の通っている日曜学校を訪れ、近くのグラウンドでトライアウトを行うことになったのです。まるでロケットのようなスタートを切ったレズは、周囲に圧倒的な差を付けてゴールしました。それは、のちにニュージーランド最強の陸上クラブとして名を馳せる、Western Suburbs Athletic Clubとともに歩む栄光の第一歩でした。
レズは生まれつき足が速く、勝負に対しては貪欲で、学ぶことにも積極的でした。そして、この若きスポーツマンは、徐々にジムや筋力トレーニング、フィジカルカルチャーにのめり込んでいきます。ボディビルダーのチャールズ・アトラスが実践していた筋力トレーニングプログラムに励み、筋肉にまつわる知見を広げ、とにかく熱心に勉強を続けました。その情熱は彼の才能を十分に引き出し、レズはパワフルなアスリートへと成長していくのです。
陸上競技とウェイトリフティングに秀でていたレズですが、彼が最も才能を発揮したのが砲丸投げと円盤投げでした。同種目で数々の国内タイトルを獲得し、砲丸投げにいたっては19.81メートルのニュージーランド記録(当時)を樹立したほどです。その記録は、44年にわたって破られませんでした。オリンピックについては、1960年ローマ、1964年東京、1968年メキシコシティ、1972年ミュンヘンと4大会連続で出場しました。また、1958年カーディフ、1962年パース、1966年キングストン、1970年エディンバラと、4度のコモンウェルスゲームズでファイナリストとなりました。その他の国際大会でも表彰台の常連として活躍し、キャリアを通して数多くのメダルを獲得したのです。
トップレベルで競技を続ける一方、レズはビジネスの世界へも足を踏み入れていきます。19歳の時、同じく世界を舞台に活躍していたアスリートのコリーンと結婚し、ほどなくして二人三脚で靴店を開業します。わずか数年のうちに、小さな店舗は靴と家電製品を扱うチェーン店にまで成長しました。2人は、30歳で精肉店チェーンを築いた実業家、レズの父親の足跡をたどっていたのです。
事業のために週60時間働きながらも、ハードなトレーニングを欠かすことはありませんでした。成功に近道はないことを知っていた彼は、日々グレーリンパークで砲丸投げの練習に精を出します。その結果、現役当時にできた手のタコは、キャリアを終えた後もしっかり残っていました。
身体を鍛える一方で、勉強にも熱心だったレズ。陸上の特待生としてアメリカの大学へ進学が決まったことを受け、1962年、ミルズ家は海外移住を決意するのです。当時のアメリカは、まさにジムカルチャーが花開く前夜のような時代でした。そんな光景を目の当たりにし、レズはアスリート向けトレーニングが秘めた大きな可能性を確信したのです。
2年間のアメリカ生活を経て、事業の業績が芳しくなかったこともあり、レズはニュージーランドへ帰国することにしました。以降、彼はフィットネスと自身の未来について真剣に考え始めます。経営難に陥っていたオークランドの小さなヘルススタジオを5,000 NZドルで買い取り、1968年、最初のジムを開業したのです。
Les Mills World of Fitnessと名付けられたジムは、アスリート向けに基礎的な筋力トレーニングと有酸素運動を提供するという、シンプルなスモールビジネスとしてスタートします。その小さなジムには更衣室とトイレがひとつずつしかなく、男性と女性が日替わりで利用していました。レズと妻コリーンはフルタイムで働き、子供たち(フィリップとドナ)も施設の清掃などを手伝いました。ミルズ家は、決して裕福な家庭ではなかったのです。
レズ同様、コリーン、フィリップ、ドナも根っからのアスリートで、優れた才能の持ち主でした。1974年、3人はコモンウェルスゲームズに出場するため、レズも含めた家族総出で開催都市クライストチャーチを訪れます。すでに第一線から退いていたため、サポート役としての帯同だったレズでしたが、会場での存在感には目を見張るものがありました。レズがニュージーランドのスポーツ界を引っ張っていく存在であることは、誰の目にも明らかでした。
競技者としてのキャリアを終えると、レズは再び海を渡り、1974年から1976年までパプアニューギニアの国家スポーツディレクターを務めました。在任中には23の州で施設を整備し、現地スタッフの育成にも力を入れました。また、グアムで開催されたサウスパシフィックゲームズではパプアニューギニア代表をサポートし、1976年のモントリオールオリンピックでは同代表の総監督的役割を担いました。その後、ハワイやイギリスなどを拠点に活動する道もありましたが、数年の海外生活を経て、レズは家族とともに故郷へ戻ることを望むようになります。
オークランドに戻ったレズは、短期間ながらAthletics New Zealandの国家コーチングディレクターを務めました。1978年にエドモントンで開催されたコモンウェルスゲームズではニュージーランド代表のコーチに就任し、さらに、世界で活躍するアスリートの育成を目的としたニュージーランドスポーツ財団の創設メンバーにも名を連ねました。
長年にわたって、レズは母国で何百人もの若手アスリートを指導しましたが、なかでもベアトリス・ファウムイナの成長は彼のハイライトのひとつと言えるでしょう。円盤投げ選手のべアトリスは、1997年の世界陸上と1998年のコモンウェルスゲームズで優勝し、当時のニュージーランド記録を樹立するほどの活躍を見せました。ペアトリスの成功もあり、1998年、レズはニュージーランドで最も権威あるスポーツの表彰、ハルバーグ賞の年間最優秀コーチに選ばれます。同時期に、ウェイトリフティングの国際審判員としても活躍し(彼はニュージーランドウェイトリフティング協会の終身会員でもあります)、1999年には、ニュージーランドで開催されたFIFA U-17ワールドカップの大会組織委員会理事長に就任しました。さらに、1998年にクアラルンプールで開催されたコモンウェルスゲームズと2000年のシドニーオリンピックでは、ニュージーランド選手団の団長を務めました。
ビジネスに話を戻すと、1970年代後半、母国に留まることを決めたレズは、その開拓者精神をより一層加速させていきます。Les Mills World of Fitnessを次のステージへ引き上げるべく、1979年、より大きく展開できるビクトリアストリートへとジムを移転します。その後ほどなくして、アメリカ留学を終えて帰国したフィリップから聞かされた、カリフォルニアでのエアロビクスブームに着想を得て、最初のLes Millsグループフィットネススタジオを立ち上げたのです。その後、コリーン、フィリップ、そしてフィリップの妻ジャッキーがリードし、世界中で愛されている数々のLes Millsプログラムを生み出していきました。
ジムの運営を息子フィリップへ託したあと、レズは徐々に政治への情熱を燃やすようになります。1990年にはオークランド市長に選出され、その職を3期にわたって務めました。ニュージーランド最大の都市で市長を務めた8年間で、彼は複数の地方議会をひとつへ統合する、通称スーパーシティ構想を推進しました。
レズが携わったプロジェクトは多岐にわたります。ヴァイアダクトハーバーといったウォーターフロントの再開発やスカイタワーの建設なども、彼の任期中に実現したプロジェクトです。また、当時大論争を巻き起こしたブリトマート再開発計画を推し進めたのもレズでした。11の歴史的建造物を保護・修復しながら、大規模なターミナル駅を建設するというこの計画は、当初反対派から強い批判を受けました。しかしながら、次第に評価は変わっていき、現在では市の中心的存在として街の活性化に大きく貢献しています。
レズの市長在任中には、いくつもの環境政策も実行しました。また、学校や地域のレクリエーション施設を改修し、下水道や公園、ゴミ収集など、10〜20年先を見据えたインフラの整備でも大きな成果を上げました。
在任中、財政運営で発揮されたレズの手腕は見事なものでした。彼は市の支出管理を徹底し、公共債務を100万NZドル未満に抑え込むことに成功したのです。現在、オークランドの公共債務が140億NZドル規模であることを考えると、レズの功績は際立っています。これらすべては、妻コリーンの支えがあったからこそ成し得たことです。努力を惜しまない、周囲を鼓舞する完璧な市長夫人だと、レズは常にコリーンを称えていました。彼女の決意、献身的姿勢、そしてコミュニティ精神こそが、3期にわってオークランド市長を勤め上げたレズの原動力だったのです。
2002年、エリザベス女王即位50周年と重なる女王誕生日叙勲にて、地方自治とスポーツへの貢献が認められ、レズはニュージーランド功労勲章(CNZM)を授与されました。これは、1973年の女王誕生日叙勲での大英帝国勲章(MBE)授与に続く新たな栄誉でした。2022年には、息子フィリップ夫妻とともに、ニュージーランドビジネス殿堂入りを果たしました。
2005年に妻コリーンに先立たれたレズは、2026年、フィリップ夫妻と娘のドナ、孫のダイアナ、レズ・ジュニア、ガブリエル、モアナ、そして多くのひ孫たちを遺して、その生涯を閉じました。
スポーツやフィットネスはもちろん、政治から社会活動にいたるまで、レズ・ミルズが遺した多大な功績に疑いの余地はありません。レズ、あなたの揺るぎない情熱、先見の明、そしてより健康的な世界を創造するために捧げた人生に心から感謝します。
レズリー・ロイ・ミルズ MBE, CNZM(1934年11月1日〜2026年6月29日)
「ジムの目的は、人々がフィットネスの虜になる手助けをすることです」– レズ・ミルズ(1968年)
